庄内地方は遠い昔から、住みよい土地であったと見えて、私達の祖先は縄文時代よりこの土地に住み、以来生活の跡やその文化遺産等が旧跡となって残されています。


黄金遺跡

根本山の南麓にある黄金遺跡は、蜆塚遺跡とほぼ同じ縄文時代のものと云われている。ここからは石鏃や石錘が多く出た。黒燿石・石英・粘板岩などが材料で、三角形やひし型、くわい型もあった。
当時三方原は原始林で烏や獣が多くいて、石の矢鏃等で捕獲したのである。石錘は丸い石にみぞをつけて糸などを結びつけ、重りにして魚を獲ったものであ る。
最後の氷河期を過ぎて海面は上昇し、約五千年前の水位は現在より高い位置にあり、呉松町前の谷一帯あたりまで達つしていた。当時の人々は居ながらに貝を採り、魚を捕えることが出来た。このように生活に必要な食料を捕獲しやすかった黄金遺跡一帯は、古代人にとって安住の地であったであろう。


水出観音

元禄10年(1697)2月、信心深い村人達が深萩の谷間に観音像を安置した。その位置が呉松川の水源地であった所から、「水出の観音様」と呼ばれて今日に至っている。
霊驗あらたかで、大勢の信心深い人々が参詣した。また参籠を希望する声が強かったので、おこもり堂を建てたところ、付近には茶店が出る程の振いだったという。
3年間患って失明した兎荷と云う人が・この話を伝え聞き100日の願をかけた。99日目アタラ水で洗眼すれば治るとのお告げを受け、それを実行したところ一夜明けた100目に開眼した。お礼に和讃を置いて帰ったという。
幕末の頃友川右近と云う者が、李学の大家小沢天爵の娘おさよに横恋慕した末・天爵を殺して出奔した。おさよと許嫁の柳清四郎は、仇討ちに出かけ3年目の天保4年(1833)7月17日、水出観音に参詣して本懐達成を祈願した。たまたま茶店へ入った所、仇に会い目出たく本懐をとげたという。水出観音仇討ち霊驗記が残っている。傷ついた柳清四郎は、呉松村の小林医師に治療を受け、全快したお礼に、仇討ちに使った太刀を奉納し、花火の製法を教えて帰った。
これより、長く花火(手筒花火)の製法は若者に伝えられ、呉松町の祭典時に奉納されてきた。


亀塚古墳

遠鉄舘山寺線鳥居先バス停より、深萩方面へ向かって1粁程行った、左側畑の中に亀塚古墳がある。亀の形に似ている事と、周辺より瓶がたくさん出てきた事から、かめ塚古墳と呼ぶようになったらしい。 これは西暦五百年位のものだろうと思われる。前方後円墳で全長27米あったと云われていたが現在は20米位しかない。この地を治めた豪族のものだろうと想像される。 亀塚古墳は、現在個人の所有になっている。


湖北の浜名橋

推古天皇の20年(616)に呉松と大崎の間、湖上一里に素朴な木造の浜名橋が架けられた。そして1360年経った今、ほぼ同じ場所に近代技術の枠をあつめて造られた浜名湖橋を、東名高速道路が通っている。今昔の感ひとしお深いものがある。
和漢三才図絵によれば、百済から来た人の中に長橋の技術者がいたので、三河の八径長橋・木曽の梯橋.会津の闇川橋・遠州の浜名橋等、全国181箇所に橋を架けた。これによって往還を迂回通行する悩みがなくなったと記されている。
現在、湖北の浜名橋を立証する物件は残されていないが、古老達の言い伝えによると、静かな月夜の干潮時にその橋脚の石が見えたと云う。
また遠江風土記によれば、その昔都田川の流れは堀江ー大崎間にあり、後に橋を渡して浜名に通じたとある。これが浜名橋の所で「今は渡海一里なり。大崎の海中に橋の断礎あり、今なお存す」と書いてある
獄南史・方角抄・更級日記・橋本記・宗長手記海道下り等にも、浜名橋の上り下りの模様が記されている。あの源九郎義経も、ごの橋を渡って京へ向ったのであろう。


ビルマゆかりの碑

この碑は大草山の、ロープウエー展望台の東側に立っている。昭和15年(1940)の冬、世間の目を避けて弁天島や舘山寺の旅館を転々として、苦労していたオンサン将軍を支援したのが、鈴木敬司少将であった。そもそものきっかけは、それより三年程前にさかのぼる。 当時鈴木少将はビルマ(当時イギリス領地)でインバールルート遮断作戦に当っていた。たまたま民族独立運動のリーダーオソサンと出会った。少将は「ボウ・モウ・ジョウ」(ミャンマー伝説の白馬に乗った雷将軍)と呼ばれ、独立運動を助けていたのだった。 その後オンサン将軍の望は叶い、ミヤンマーは独立出来たが、現在は軍部のクーデターにより・自由なき国となっている。 今、幽閉の身となっているスーチイ女史(オンサン将軍の娘さん)も、この大草山の地を訪れた事がある。 この碑はビルマ国民に建国の父と仰がれるオンサン将軍が去る昭和15年わが国に亡命して当地出身の鈴木敬司陸軍少将と共に祖国独立運動の秘策を練ったこのゆかりの地に建てられたものであります太平洋戦争間彼の苛酷なビルマ戦場で幾多春秋に富む若い身を祖国に捧げ散華された諸英霊は当静岡県出身者のみでも2700余柱に及んでおります今日のわが国の隆盛が一途に祖国の安泰と平和をこい願いつつ散華された尊い英霊の犠牲とそのご加護の賜である事は片時も忘れることが出来ません ここに同志相図り静岡県及び浜松市ならびに関係市町村当局の御協力を得てビルマゆかりの碑を建設しビルマ方面で戦没された諸英霊をお慰めすると共にオンサン将軍の史実を長くここに留めビルマと友好を期する次第でありますなお碑面のビルマ語は駐日ビルマ連邦大使ウチコーコー閣下の撰になり「ジャパンバマーチチェーテミエパセー」と発音し「日緬永遠の友好をー」の意味であります
昭和50年5月12日
ビルマゆかりの碑建設委員会
会長 飯田祥二郎


赤尾憩の碑


平松町の八幡神社境内の東側、老木に囲まれた一角に赤尾憩の頒徳碑が建っている。憩は隣村呉松村の神官、宮本石見の三男として生まれた。生来が学問好きだったので引佐郡杤窪村岩間寺にて、漢学と仏道を学び、名古屋に出て詩文と書道を修めて故郷に帰り、平松寺の住職となった。 また招かれて山名郡赤尾村の長楽寺の住職となった。時勢が変り廃仏毀釈が叫ばれ、社僧は還俗を命じられた。その時赤尾村にいたので赤尾憩を名乗った。後神主として出直すため、神祇官から神主の免状を取り神官となる。 明治4年(1871)大沢藩校の堀江村舘山寺学校の教育に当り、以来14年間教職についた。その後平松村の八幡神社の神主と、曽許乃御立神社の神司を兼ねた神職生活に入り、66才で死去した。門人達相図りその徳を長く頒せんとして、明治40年(1907)一月この碑を建立した。


舘山寺古墳

舘山寺の裏山の中腹に、直経約1,3米奥行き4米ほどの横穴式古墳がある。寛政年間(1789〜1800)版行の東海道名所図絵にも、火穴としてこの古墳が出ている。発掘した年代も遺物もわからないが、横穴式石室は遺骨を置く玄室と、外部に通ずる廊下(羨道)とからなり、古墳時代最後の形式で中国から伝った葬法である。 いま玄室には弘法大師の石像が安置してあるので、弘法穴とか穴大師とか呼ばれている。なお以前は十数基の古墳があったと云われているが、今はその面影すら残っていない。


佐田城と堀江氏

堀江和泉守光真は、応永年間(1394〜1427)に佐田に城を築いて住むようになった。佐田と云う地名は、三ヶ日金剛過去帳によれば、「古代は堀江・内山を佐田と号す」とある。しかしこの佐田城の位置は初めから、御陣山にあったかどうかはっきりしない。 六代清泰まで代々善政を布いて、領民に親しまれて来た。此の堀江氏は浜名湖全体を支配する程、大きなカを待っていたが、大永2年(1522)幕府軍に攻められて滅びた。清泰の死後佐田の百性たちはその仁徳を慕って、堀江村を名乗る事とした。以後堀江と云う地名は庄内村が浜松市に合併するまで、420年間使われて来た。4代目城主久実は、文正元年(1466)内山に藤谷山宿芦寺を建立し、命天大和尚が開山となっている。


堀江城趾と大澤氏

堀江城がいつ頃築かれ、何処にあったかと云う事は、正確にはわかっていない。藤原基秀が貞治年中(1362〜1367)には、遠江に下向して、堀江城に住むようになったというが、その頃の城の位置はもっと南寄りではなかっただろうか。しかも城と云うよりも館に近かったと思われる。 堀江城の城主としては、大沢氏・中安氏が時には併立、時には主従、或いは姻籍の関係をもって長く続いたものと思う。 大沢家中興の祖基胤が、永禄年間(1558〜1569)に今の浜名湖パルパル一帯に山城を構え、家康に仕えて一層安定した。江戸時代を経て、明治の初年(1868)城郭取毀し令による、建造物撤去もさること乍ら、近年観光の波に洗われて、城趾遺構もすっかり消えてしまった。まことに惜しいことである。 此の堀江城と共に、幕府筆頭高家として、吉良家と1・2を爭って来た大沢家一族の姿もうすれ行き、今は菩提寺の藤谷山宿芦寺に11基の宝篋印塔がひっそりと残されて、訪れる人影も少ない。


中安兵部と竜泉寺

大永12年(1522)3月1日佐田城落城後、城主堀江新右門清泰の2男は中安兵部を名乗り、堀江城主大沢侯に仕えて重臣となり、領内の政治に参画し一時は城主にもなった。 城主になって間もなく、永禄3年(1560)3月11日、大草山の山頂に竜泉寺を建立した。後、兵部の下屋敷のあった内山(庄内町)に移築し、数度の増改築を経て今日に至いっている。しかし山門だけは当時のまま、400年の歴史を物語るかのよう、ひっそりと静まっている。 兵部より12代目今はなぎ武彦氏は、昭和44年(1969)竜泉寺において先祖の供養を営み石灯ろうを寄進した。


石塚竜麿顕彰碑

石塚竜麿は庄内半島が生んだ、江戸末期の偉大なる国学者である。竜麿は明和元年(1764)石塚司馬右衛門の2男として生れた。その頃出生地細田村の近辺には、多くの国学者や歌人がいて、幼ない時から大きな影響を受けて育った。竜麿は師の内山真竜の門をたたく前に、すでに歌人として知られていたほどである。 「藻塩焼く海士の苫屋の夕煙 立ち出で月の かげをくみけん」入門してすぐの歌である。 また書も多く、仮名研究2巻・註釈書17巻.万葉研究5巻.歌論4巻・紀行日記6巻・論証4巻などで、中でも代表作として「仮名遺い奥の山路」と「鈴屋大人都日記」は有名である。 南庄内小学校々庭には、竜麿を讃えた本居宜長の顕彰文が碑となっている。 文政6年(1823)6月13日不帰の客となった。享年55才であった。


中開干拓一記念碑



干拓記念碑 国務大臣 周東秀雄書 と云う碑が庄和町東端の和田橋を渡った所に立っている。碑の裏側に次の様な文面が刻んである。『当地区の干拓事業は、村民多年の宿願であって、明治の末期以来村内先覚者により、再三企画実行に移されたが、完成するに至らなかった。大正11年中央開墾株式会社がこの経営に当る事となり、一部の耕地並びに養鰻池が造成され一応の完成を見たが、昭和19年12月の東海地震のため惨禍を被り地元民の協力を得なければ、到底復旧は望み難い状態に立ち至った。時恰も太平洋戦争の真直中で、国を挙げて食糧増産の急務が叫ばれていたので、当地区の復旧と新田開発に対する、村民の熱意はいよいよ高く、独力をもって此れを遂行しようと決意し、会社と折衝する事数次、遂に譲り受けの交渉が成立した。爾来上司の援助を得て、7ケ年に亘る指導者、並びに村民の孜孜としてたゆまぬ努力によって、昭和26年60余町歩の干拓事業の完成を見るに至った。ここに碑を建立して、この業績を永久に記念する。昭和27年3月』


御山塚古墳

古墳時代最後のものと云われる御山塚古墳は、村櫛町の東端庄和町との境界付近にあり、小高い丘陵になっている。明治40年(1907)12月に土地の人12人で、この古墳を発掘したところ、五鈴鏡・金環・銀環・直刀・刀装具・耳環・勾玉類・須恵器などが発見された。
その出土品は県立葵文庫に納められたが、のち東京上野の国立博物館に買い上げられた。村櫛町にはその写真が残されている。村人の話によるとまだ15刀が埋められていると云う。
発掘に当った12人は、その後、いづれも病死したり、不幸な目にあった事から、祟りではないかと恐れられ、以後これを継ぐものはない。
出土品の中の御鈴鏡は、弥生文化に続く古墳文化を知る上で、重要な遺物である。鏡の周囲に鈴をつける風習は中国にはない事で、鈴を好んだ古代人の独創によるものとして、貴重なものである。
この事実から、大和朝廷の全国統一が始まった頃、小さな古代国家の支配者が村櫛の地に土着して、村造りは4〜5世紀頃より始まっていたのであろう。一時は日蓮様を祭ったりして賑った御山塚も、今は訪れる人もないままに原生林と化し、ただ志津城の城主であった藤原共資公の墓のみが、ひっそりと建っているのが淋しい限りである。


志津城趾

志津城趾は村櫛町の東端にあって城山と呼ばれ、昔志津三郎の築いたものと云われている。
凡そ1000年前正暦元年(990)、藤原共資が京より下って当地方を治めたと云われている。その当時城山の高さは25米、周囲600米山上の面積3アールの小丘であった。今は耕地造成のため、山を崩して湖面を埋立て平坦な畑地tとなっている。その跡地に記念碑が建っている。
碑文に「志津城は志津三郎の築きし所にして、正暦元年藤原共資公勅命により、此の地に下り当地方を治む。嗣子共保公井ノ谷に移り住む。それより8代後、日蓮上人其の中より出ず。その後明治の御代となり、耕地乏しきにより城址を崩し湖面を埋立て16町歩の美田を作る。村民皆その恩恵に浴し、郷土発展の礎となる。茲に村民有志相図り城址に碑を建てこれを後世に伝う。」とある。
この地よりでた矢砥石は、今は庄和町の大和神社に奉納されている。


酒専売事業

安政元年(1854)11月3日、古来稀な大地震と津波の大災害があった。湖岸の耕地には海水が浸水しその被害は実に惨然たるものがあった。その後も農作物は毎年不作で村民は疲れ果て、村を捨てるものが続出した。そこで代官・役人合議の上儉約令を出し、5年間衣服、飲食物に制限を加え、酒類は一切禁止した。
結果経済状態がやや良くなるに伴い、人心はまた奢侈に傾き、ひそかに酒の売買が行われ、また貧困に陥るようになった。
そこで村役人またまた合議の上、酒を村の専売とし、節酒勤儉の美風を養うと共に、一部を村の費用に充てる事にして、酒の会所売りを始めた。万延元年(1860)約140年も前のことである。
当時一戸一合以上は売らなかったので、飲酒の量も減じて風紀も改ったが、外部より酒行商人が入って来たので、此れを防ぐため村の消防組に事業を経営させた。この代金の一部を消防組の経費にあてたため、消防組発展の有力な基盤となり、村民の団結心は一層強固になった。明治41年(1908)内務省より表彰されている。酒の専売事業は、今もなお専売所において脈々と受けつがれている。


村櫛干拓記念碑

村櫛町の歴史は埋立ての歴史であると云っても過言ではない。庄内半島は殆どの地区で開拓・干拓が行われているが、特に村櫛村は三方が湖に囲まれていて、平地に乏しく耕地はやせ地が多い。そのため江戸時代の村民の生活は極めて貧しく、浜名湖の湖底の藻草を採って、近くの村々へ売ってやっと生活を支えて来た。
如何に村櫛村の藻草取りが大切であったかと云う事は、明治14年(1881)に藻草売買をめぐって大審院事件にまで発展した事でもわかるでろう。
明治の始めに堀野様開墾が出来ると、村人達は地先に自力で小規模な埋立てを行い、その数は百数十件に及んだ。更に明治13年(1880)に保令の埋立事業で18町歩の完成を見た。大正年間には前田沖耕地組合を結成して、10年の歳月を費やし28町歩を完成させた。これに並行してうなぎの養殖池も造成され、職布業と共にこの村の二代産業に発展した。
やがて終戦後の極度の食糧難時代に遭遇し、国と県の援助を得て、昭和22年(1947)より1年半にして、120町歩の臨海耕地を完成させ、村民の窮乏を救った。
時移り時代は変って、今その土地が頭脳公園となり、音楽公園に変身しようとしている。
かって村をあげ、大審院で争った藻草事件の湖の底が・・・・・。
黄金遺跡 水出観音 亀塚古墳 湖北の浜名橋
ビルマゆかりの碑 赤尾憩の碑 舘山寺古墳 佐田城と堀江氏
堀江城趾と大澤氏 中安兵部と竜泉寺 石塚竜麿顕彰碑 中開干拓一記念碑
御山塚古墳 志津城趾 酒専売事業 村櫛干拓記念碑